こんばんは。らんらん♪です。



南海沖トラフ地震が仮に起きた場合の被害等についてニュースで取り上げていました。

このような仮に甚大な自然災害が起きたら、というようなことは不安をあおるとしてこれまで公表してこなかったことだそうです。

しかし、冷静に受け止めて、冷静に正しく恐れてもらうために予測し被害等を発表したということです。


このニュースを見ながら、自分が受けた診断や受け止めた覚悟と重ねていました。



「正しく恐れる」

予測というエビデンスに基づく予後に対する考察を受け止めて、僕は「正しく恐れて」いるのだろうか?


少なくとも、化学療法に向けては体調や精神状態を整える取り組みを行っているつもりです。


それが、必ず教壇に戻り楽しかったあの日々を取り返すことにつながっていると信じているからです。


正しく恐れるならば、優先されるべきは僕自身の命でしょう。

次に体力や気力。

そして最後に仕事です。


でも、僕は今回も仕事に戻りたいと思っています。

命が助かるようにとは思っていません。当たり前と思っていたからです。

これで正しく恐れていると言えるのだろうか?


これでは、大津波が襲ってきている中、明日の昼は何を食べようかと考えているようなものではないか。。。




オピオイドを執拗に(今の僕はそう感じている)調整し、痛みを感じないようにして、教壇に立つことは可能なのだろうか?


タイトなスケジュールで検査が入っているなかで、再び教壇に立つことを認められるのだろうか?


(今の状態としては)働く喜びを病気によって奪われている現在の状態で、何を燃料として元気を出したり、踏ん張ることができるのだろうか?


地元の主治医からは、「あきらめないでくだい」と言ってもらえた事がない。(当たり前の言葉だから言わなくても分かっていると思われているためか?)
突然死の割合が非常に高いとか、非常に厳しい病気であり、症例数も限定的なので何が起こるか分からないとか、らんらん♪さんはO大病院からフォローを依頼された患者である(もちろん最善の手は尽くす)などの、煮え切らない言葉が並ぶ。
この病院で、僕は厳しい化学療法に活路を見いだし、闘うことができるのだろうか。


このような言葉や雰囲気で「正しく恐れて」くださいとでも言いたいのか?


仕事にはほど遠く、「ただ生きているだけ」(入院 ←→ 退院のくり返し)になるのではないか?
(つまり、僕の思考の中では、仕事ができるようなにることが目標であり、心のどこかでそれが達成できないのはないかと思ってしまっている。)



その他大勢の見解より、僕自身の意見や目標を貫ける、強い心が欲しいです。



明日はまた違うテーマで書きたいと思います。






おやすみなさい



明けない夜はない

らんらん♪